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ポールシフト暴風に注意!!

 投稿者:お邪魔します  投稿日:2013年 9月 1日(日)12時11分39秒
  下記理由により、2ch以外のフリートーク掲示板を利用させて頂きます。
当書き込みが削除されましたら、2015年7月20日までは、2ch自然災害板など多数箇所・ブログ・その他掲示板へ、当書き込みのコピー&ペーストをお願い致します(そのときはお手数ですが、teacup掲示板への書き込みのコピー&ペーストである旨をお書き添えください)。

ポールシフト警告を2chでしていたら、国際金融財閥・軍産複合体の諜報・情報機関に、再び書き込み不可能にされた(以前も書いたとおり、2chの普通の一般的な規制ではない)。
2chのような大きな掲示板では、ポールシフト暴風警告が一つ足りなくなるだけで、関心を持ち当方のサイトをキーワード検索する大衆が減り、口コミ警鐘も減り、結果、防災・避難する人が減ることで死亡者・ケガ人が増えてしまう。その後の生活への対応だってある。数年後、被害に遭った方は、国際金融財閥・エージェントの連中を怒ってください。
国際金融財閥・軍産複合体は、当方に連中の世界経済支配に立脚地をおく世界コントロールのことを記述されているので、状況を逆手にとり、大衆の錯覚・撹乱を狙って、マスコミで警鐘を鳴らそうとでもいうのか。

キーワード:ポールシフト157・158、暴風157・158、ポールシフト15-7・15-8、暴風15-7・15-8

諜報・情報機関に検索不可能・削除されかねないので(グーグルの検索順位・検索表示内容が操作可能なのも確認済み)、当書き込みはすぐにダウンロードかテキスト保存かメモしてください!! 各自の速やかなメール拡散も希望致します。
国際金融財閥の人類削減・戦争計画等に注意。エージェントの撹乱・誤魔化し書き込みに注意!!
 
 

(無題)

 投稿者:一本杉  投稿日:2005年 6月20日(月)21時35分45秒
  はじめまして。村山と申します。
私も知覧に訪れて、昔のことが少しずつ脳裏から剥がされるように記憶が蘇ってきました。
知覧と言う場所は、何と神々しく気迫にこもったところなのでしょうか。感動いたしました。富屋食堂にも寄らせていただきました。また武家屋敷も見学いたしました。
日本武士の魂の叫びが、知覧一帯を取り巻くように重厚な音となって私どもに聞こえてまいりました。
思い出しますに、昭和二十年四月十一日、陸軍少尉であった父は、岡山県津山にある実家にひょこっと戻ってまいりました。実家は津山の駅からバスで二十分、その当時は歩いて一時間ほどの場所でございます。山の麓に小川が流れております。その橋を渡り、まっすぐな坂道を登って大きな一本杉を右に曲がると実家が見えます。
父とは橋を渡ってから実家までを良く競争したものです。実家からはその当時、津山の町を望むことができました。戦争が始まり、父は昭和十八年三月二十一日に出征しました。村役場の皆さんや親戚一同が津山の駅に集まり、日の丸を振って見送りました。まるでお祭り騒ぎでした。父は筆不精だったのか、余り便りを出してくれなかったようです。
その日、私は縁側で薪割をした後、手ぬぐいで汗をぬぐっていたとき、一本杉に人影を見ました。私は誰だろうと目を凝らしていると、何と父でした。父は私を認めて大きく手を振り小走りで駆け寄ってきました。「重蔵、ただいま!」
父の顔は黒く日焼けし、髭も濃く、別人のようでした。少し痩せていたのを覚えています。
弟たちも父の帰りを喜び、奥から祖父や祖母、母が駆け寄ってきました。「ただいま帰りました。」と言いながら敬礼する父の姿は、まさに帝国陸軍の少尉様であり、惚れ惚れする男前でした。「重蔵、風呂に入るぞ!」と言われ、弟たちと風呂の準備をしました。母は近所の知り合いの家に走り、芋やら南瓜やらを用意し、祖父や祖母は先祖の墓を清めるために花をもぎ、水をかけ、仏壇の掃除やらを始めました。皆、生き返ったように父の帰りをそれは喜んでいました。
その夜、父は私たちと話をしている最中に正座に座りなおし、「お前たちに話があるぞ。」と言うのです。
「お父さんは、特攻隊に志願した。国難を挽回し、この日本国の国態を悠久たらしめんがため、お父さんは逝くことにした。そして軍神となってお前たちを守り抜く。」と。
そして仏壇に座り、髪を切り、和紙に繰るんで丁寧に供えました。
母は泣き、祖父祖母は唖然とし、ただひたすら拝み祈るだけでした。
父は「お父さんは飛行機の操縦を勉強し、今は自由に大空を飛べる。お前たちは平和になったら、戦争のない澄み切った青空を力いっぱい飛びなさい。お父さんはお前たちとの別れは辛いが、お父さんが今逝かなければお前たちはもっと辛いことになるかもしれない。」
「だからお父さんを逝かせてくれ。」と言って一人ひとりの頭に手を置き、大きな声を出して笑っていました。顔は泣いていました。
朝早く、父は津山の駅を出発しました。途中、実家から坂を降り、一本杉を左に折れ、小川の橋を渡っていつものように津山の駅まで手をつないで歩きました。駅に着き、父は母と何か話をしているようでしたが、何を話していたのかはわかりません。私は最後の別れになる母の気持ちが幼いなりにわかっていました。汽車の汽笛の音が近づき、汽車が駅に入ってくると父以外にもその汽車に乗る兵隊さんは大勢いました。ただひたすら悲しい別れの渦に巻き込まれていました。「泣くな!笑え!笑顔で見送るのだ!」といわれ、とても変な顔で日の丸の旗を振っていたと思います。心の中で「お父さん、さようなら」と言っていました。弟たちも母も祖父も父母もそうだったでしょう。
忘れもしない昭和二十年六月十日。洗濯物を乾している母を手伝い、庭で水を汲んでいるときでした。母が一本杉の方向を見て、持っていた洗濯物を手からすべり落としてしまったのです。その時の母の目は一本杉に釘づけになっていました。そして「あなた」と呼んだのです。私は父が帰ってきたと思い、一本杉に向かって駆け出しました。確かに父の姿を見たような気がしました。しかし、幻でした。
その日、父は戦死したのでした。私は泣きませんでした。弟たちと宮城の方向にいつまでも敬礼し、父は軍神になったと心の中で報告したのです。
現在、その一本杉は切り取られてありません。しかし、私の心にはその一本杉が父の姿と共にいつまでも残っています。
 

川上貞子

 投稿者:手紙に寄せて  投稿日:2005年 6月20日(月)15時56分20秒
  本当に暑い夏でございました。
私の郷里の徳島も、大雨で被害が出た模様でございます。
あの日、徳島は高曇りの蒸し暑い日和でございました。
私の夫も薩摩半島から飛んでいきました。
飛行機が三機、仲良く飛んでいきました。
その飛行機の中で、夫は何を考え、何に向かっていたのございましょうか。
ただ、ただ、この身は皇国のために、自分は美しい郷里のために、郷里の両親のために、兄弟のために、そしてわたくしのために。
鬼畜米英の手にかからぬようにと、その思いで満身誠意、思い残すことが無いように自分の影を跡形もなくなるように、笑顔で元気よく飛んでまいりました。
ここに最期の遺書がございます。

「徳島の山河の下にうまれいでて二十四年、吉野の川で鍛えし我が体を只今、国難に直面し、如何に未練があろうとも、我が命を皇国の戦いに捧げ賜らんことに思慮の余地なし。定子よ。穏忍せよ。我は喜び勇んで参る。男子の本懐これに勝るものがまたとあろうか。千年の時を越え、生まれ変わることがあればまた逢おう。今はただ、皇国非常の災いを払うためのみに専念す。ゆるせ。父や母には何の恩返しもできず、不甲斐なき我であったが、これで国のために永遠悠久の眠りにつき、魂は靖国にあり、お役に立てること、喜んでください。思い残すことは無い。さようなら。定子よ。楽しい毎日であった。料理は格別であった。
さようなら、お父さん、お母さん。
さようなら、百合子。さようなら、義則。  天皇陛下万歳」

この手紙をもらったとき、恥ずかしながらわたくしは泣いてすがってしまいました。
どうしてよいのかわからず、行かないでほしいという気持ちが爆発したようでございました。でも、なんとか我慢して笑顔を作り、送り出すことに命を懸けました。
引きちぎられる私たちを、この思いを、どうか助けてほしいと。
不思議でございますが、いまだにあの時の夫がそのまま私の心で生き続けているのでございます。
夫と同じ別れ方をされた川西様のお心のうち、お察し申し上げます。
もうそろそろお迎えが参る年になりました。それまでゆっくりと半生を思い出し、夫の待つところへ参りたいと存じます。どうぞご自愛くださいませ。
________________________________________
最期の手紙 投稿者:川西千恵子  投稿日: 9月 4日(土)17時12分58秒
今年の夏は今までになく暑かった。
59年前の夏の暑さを思い起こさせる夏でした。
入道雲が天高く湧き上がる八月十五日、私は指宿の海岸で玉音放送を拝聴しました。
夫が薩摩半島から飛び立っていってから、私は郷里の福井に帰ることができなくなり、今こうして鹿児島に住んでおります。
「千恵子よ。悲しまないでくれ、君は行く春を惜しんで泣いても僕のためには泣かないでくれ。春に咲く桜は、散らずして新たな蕾は付けず、冬の厳寒を凌いで春に一挙に芽吹く様を見よ。後を頼む。僕はこの体躯の限りを尽くして愛機と共に敵艦を撃沈す。これは向後の憂いを取り払い、皇国を永久無窮ならしむるところなり。日本男子として生まれきたからには仇敵を撃砕せずに生き恥を晒すなかれ。戦友の屍を越え、たとえ我が身が敵弾に粉砕するとも打ちてし止まむ。僕が千恵子に永遠の愛を誓ったことに悔いはなし。
越前の春の美しさをこの胸に抱きて、魂はここにあらず越前にあり。さようなら。 敏貞」
これは、私が夫から最後に手渡しで頂いた手紙です。
どうか、二度と戦争が起こりませんように。私のような悲しみを二度と繰り返しませんように。
祈るばかりです。
 

中町佐代子

 投稿者:幸せ  投稿日:2005年 6月20日(月)15時53分52秒
  残暑もそろそろ終わりですね。今年の夏は格別に暑かった。皆様方にはご健勝のことと存じ、お喜び申し上げる次第でございます。
川西様、川上様、お二方様には戦後、どのような苦労をされたか、計り知れぬものがあり、ただただご自愛くださいますよう、お願いを申し上げるのみでございます。これまでの59年間。さぞお苦しみのことと存じ上げますが、齢70を越えますと誰でもそろそろだと考えがちでございます。どうかご健康にはくれぐれもお気をつけになって下さいませ。
わたくしも、あなた様方と同じ経験をした一人でございます。
わたくしは今でも薩摩半島に出向いては、知覧参りをしております。
私の夫も加世田から飛んでいきました。
当時、わかくしの住まいが加古川でございましたので、そこから汽車に揺られて二日間、飲まず食わずで加世田に到着いたしました。
わたくしの夫はわたくしと会って二日目に飛び立ち、一度戻ってきて二日目にまた飛んでまいりました。
わたくしの夫がわたくしに残した唯一の手紙は、遺書でございます。

「佐代子よ、短い年月であったが僕は幸せでした。こんな世の中でなかったら、一生添い遂げることができたと思い、今はただ鬼畜米英を恨むのみです。佐代子の実家は焼け野原になったと聞きました。さぞ、お心落としのことと存じます。でも、ぼくはこれ以上そのようなことがないように我が命を懸けて戦い、守り抜く所存です。僕が特攻隊を志願したことは両親も存じております。父にも母にも孝行できないまま逝くのは辛いけど、乾坤一滴、我が行く道に迷いなしです。佐代子は甘いものが好きでしたね。虫歯にならないように気をつけるように。それから妹の真知子をよろしく頼みます。おてんばで困ります。いつか真知子の合唱を聞きに行く約束でしたが、叶わずです。しゃばとは明日でお別れです。仲の良かった戦友が今日も飛びます。僕は必ず皇国のために戦い抜いて見せます。我が身は六尺にも満たない小兵なれど、三万頓の鉄船を海底に屠るは、愉快なり。日本男子としての誇りをもっていきます。さようなら佐代子、さようなら愛する皆よ。」

この手紙をもらってから、二日目に飛んでいきましたが、昼頃、帰ってきたという連絡を受け、わたくしは会いにいきました。しかし、夫は会ってくれませんでした。
わたしは兵舎の見える木陰から次の日も夫の姿を追いかけましたが、とうとう会えずに夫は飛び立ったのでした。
その日、わたくしは汽車に乗るために加世田の駅に向かいましたが、空襲で線路が壊れたため、相乗りのトラックで伊集院まで行くことになりました。
伊集院の旅館で休んでいるときに、ふと見上げた空に夫がいるのです。そして笑顔でわたしを見ているのがわかりました。「あなた、あなた、何故会ってくれなかったの」すると「佐代子、気をつけて帰りなさい。じゃあね。」と笑顔で応えるのでした。そしていつもの癖で右手のひらをこちらに向けて手を振るのです。そのときは死ぬほど辛かった。でも辛くて辛くて我慢できないとき、必ず夫の笑顔が蘇り、わたくしを勇気付けてくれるのです。ありがたいことです。
今ここには真知子さんのお孫さんが遊びに来ています。真知子さんを見て夫の面影を探しているわたくしに気がつくことがあります。たぶんこのまま幸せな気分で余生を送ることができるのは夫のおかげだと、そう思っています。
皆様方にはどうかご自愛くださいますようお願い申し上げまして、つらつら書かせていただきましたこの筆を置かせていただきます。ありがとうございました。
 

闘病

 投稿者:生き残り  投稿日:2005年 6月20日(月)15時49分38秒
  東京はまた暑くなりました。三十四度もあります。
わたしは今、闘病生活をしております。こうして病室でパソコンに向かい合って昔話をするのも、後、半年くらいでしょうか。病名はなんとなくわかっております。子供たちや妻は知っているのに隠しているのが良くわかるようになりました。
もうそろそろ死を迎える人に対する哀願の眼差し。これと同じ眼差しをわたしは59年前に見ています。それはわたしが18歳のときでした。
特攻隊で明日出撃するというとき、周りの人たちがわたしを見る目と同じなのです。
笑顔が笑顔でなく、沈鬱な表情を隠しきれない陰が、表情に写し出されているのです。本人は必死で堪えているのだと思いますが、わたしには判るのです。
わたしが生き残って東京に辿り着いたとき、東京は焼け野原。道も家も木々も昔の面影を残していませんでした。
母も父も幼い兄弟も死んでしまいました。私一人が生き残ったのです。
死ぬはずの人間が残り、死ななくても良いものたちが死んだ。この矛盾をどう受け取ればよいのか。今となってはただ辛い思い出です。
父や母に何もしてやれなかった。孝行できなかった。兄弟に優しくしてあげる事ができなかった。不憫で寂しくて悲しくてわたしもいっそ死のうかと思いましたが、それもできなかった。
今こうして死を迎えようとしているわたしは、わたしの家族に何をしてあげれただろうか。
生に対する執着はもうありません。これでやっと59年前に失った家族に会えるのだという気持ちで一杯です。むしろ楽しみにしています。子供たちや孫たちにはそのことを話していませんが、妻はわたしの言いたいことがわかっているのでしょうか。
目を瞑るとけたたましい飛行機の爆音が蘇ってきます。目が眩むほど烈しい閃光が飛び交う戦場を思い出します。
三浦、岡島、加藤。皆死んでいった。空一面を覆う高角砲の炸裂、機関砲の飛び交う閃光、ガソリンが燃える臭い、そして墜落する飛行機の金属音。
操縦席まで火が回っているのに操縦桿を放さない戦友。俺は逃げないといってグラマンに衝突した戦友。思い出します。
佐藤は訓練中着陸に失敗して大破し、血だらけで「お母さん」と叫びながら死んだ。上原は急降下訓練中、右翼が折れて錐もみ状態で畑に激突して飛散した。滝田は着陸してまもなく出火し、火だるまで逃げたが大火傷をおってその夜、泣きながら死んだ。
喜びも悲しみも別ち合える戦友の死、わたしは大儀に生き、大儀に逝くことを願った。そしてあの日飛んだ。開聞岳を越え、徳之島まで飛んだ。しかし、わたしだけが生き残った。
今、こうして死を迎える覚悟ができ、英霊たちに再び会えること、幸福です。
 

手紙

 投稿者:山下早苗  投稿日:2005年 6月20日(月)15時48分22秒
  山下早苗と申します。これもご縁と思い、兄の遺書をお示しいたします。これが平和の礎のお役に立てば幸いでございます。宜しくお願い申し上げます。
「父上様、母上様
 衛は幸せであります。皇国から大任を仰せつかりました。男子の本懐これに勝るものがまたとありましょうか。衛は山下家の長男として生まれ出でて二十四年。ここまで育て上げていただき、誠に深謝する限りでございます。しかしながら、父上様や母上様には何の恩返しもできないままの身勝手をどうかお許しください。我が皇国日本は今、未曾有の国難を迎えております。これを我が命を持って克服し、皇国の安泰ならしむるのであります。散る桜がなければ、咲く桜もないのであります。最後の勝利を期し、鬼畜米英の敵艦を海底に屠ることこそ、軍人の勤めであります。
明日の早暁、衛は振武隊の隊員として皇国受難の一大事にこの身を持って戦い抜きます。どうかお喜びください。軍人として、この身は皇国のものであります。如何に激烈な戦いであろうとも、この身が粉砕し、飛散しようとも敵艦に必ず必中撃砕撃沈です。

最後に、隆よ、俺が逝った後、おまえはしっかり山下家を頼む。姉や妹の分までしっかりやってくれ。兄らしいことを何一つしてあげられなかった俺を許せ。
日本は勝つ、必ず勝つのだ。だから隆は皇国の男子として誇りを持って生きよ。喧嘩は引き分けに持ち込めばともかくは勝ちである。だから俺は確信するのだ。
早苗よ、衛兄ちゃんは帰ることができないので、大好きなおんぶをしてあげることができないが、隆兄ちゃんの言うことをよく聞いて親孝行するようにしなさい。衛兄ちゃんは早苗に何もしてあげられなかったけど、あの世から見守っておりますぞ。
お姉さま、不憫な弟とお嘆きください。喧嘩相手がいなくなって寂しいときは隆と喧嘩してください。楽しい団欒を懐かしみながらおれはあの世で見ておりますぞ。
では、皆様さようなら
昭和二十年五月十五日
山下 衛」
 

ト発進

 投稿者:田辺  投稿日:2005年 6月20日(月)15時46分36秒
  はじめまして。田川真一と申します。この掲示板には多くの戦争経験者が投稿しています。私も戦争経験者として投稿させていただきます。
私は、ペリリュ―島からサイパン、硫黄島から台湾、串良から鹿屋へ通信兵として転戦しました。激戦のあった地域ですが占領される前に運よく移動しながら終戦を迎えることができました。当時の日本の無線は、まず、聞こえるかどうか。次に聞き取れるかどうか。が問題でありました。言葉としてではなく音として聞いているのが通常であり、モールス信号や可変パルスを使った暗号電報などがそれです。
特攻隊の皆さんは、隊長機に周波数の違う電信音を発生させる発信機を積みます。飛び立つときにこの発信音を各隊に振り分け、それを本土で聞き分けて突撃し、突入したかどうかを確認できる唯一の方法でありました。
昭和二十年四月、鹿屋から神雷攻撃隊が発進しました。これは一式陸上攻撃機に桜花をぶらさげて突入するものです。
こんなことがありました。一式陸上攻撃機にはすべてにト発信の機械を積んでいます。発進して目標到達時刻が午前八時だったと思いますが、七時半ころにト発信が一斉に鳴り出したのです。そして一機ずつ、ぽつりぽつりと発信音が消えていきました。この音が消えると同時に隊長のお名前を大きな声で読み上げるのです。
これは目標に到達する前に、迎撃されて突入ができなかったことを意味します。我々はすぐに本部に連絡しました。桜花は全滅したと。
本部から参謀長や下士官が大勢通信室に集まりました。副官は唖然としていました。悶々としているときでした。八時十分ころ、再び神雷部隊全部の発信が鳴り出したのです。ト発信の機械は、断線しない限り鳴り続けるはずですが、一度切れると再び接続することは不可能です。
ト発信の音は、二十秒ほど鳴って、やがて消えました。なぜなったのか、今でも不思議です。目的を達することができなかった兵士の魂が叫んだものと思います。
また、こんなことがありました。
中村という二十代の飛行隊長(たぶん少尉殿)が、飛び立つ前に私のところに来ました。田川さん。私が突入するまでこの花を机の上において見守っていてください。最後までよろしくお願いしますといって、湯飲み茶碗に菜の花をいけたものを持ってきたのです。何時の発信ですかと聞くと明日の○六○○時だと笑顔で答えるのです。
そのときがきて、私はその菜の花を机の脇に置き、中村隊長のト発信に注意していました。
菜の花はぴんと背を伸ばすように茶碗に入っています。その花を見つめながら中村隊長がこれから永遠の旅に出るのだなと思いながらとても大切な花のように思い、近くに寄せたときでした。時間で考えると米軍の哨戒範囲の外側付近です。ト発信が鳴り出しました。最初の発信でクを出していますから駆逐艦です。
一分近くなっていた発信音は突如、途絶えました。私は悲しくなり、大きな声で中村少尉殿と叫びました。そして机の上を見て驚きました。先ほどまで元気な姿であった菜の花が萎れているのです。
中村少尉殿が残していったその菜の花と湯飲み茶碗を、私はそっと埋葬しました。
来る日も来る日も、私はト発信を聞き続けました。
八月になるとほとんどの飛行機が本土決戦のために温存され、ひどいときには練習用の機材を使って特攻を行っていました。
昭和二十年八月十五日、宇垣長官が彗星七機を引率して飛び立ち、私の戦争は終わりました。わたしがト発信を担当した特攻機の機数は九十二機です。
死んでいくものは潔く、残ったものはかたくなであると。
しかし、私は九十二人の死を看取ってきたのです。記憶に残る九十二人の方々の冥福を祈るのみです。
 

百瀬様

 投稿者:bobu  投稿日:2005年 6月20日(月)15時45分8秒
  わたしはアメリカ人です。ボブと申します。
戦後、除隊してから東京に住んでいます。
わたしは米国海軍に所属し、沖縄戦に参加しました。
わたしは、コルフワンというLC(駆逐艦)の3番砲台に配置していました。
1945年4月6日、ピケットラインを哨戒中に特攻機に攻撃されました。
「敵襲ノースウェスト、300マイル、ボロー」の叫びとともに戦いが始まりました。
「LCブッシュから救援依頼」
船はブッシュを救援しに向かいましたが、ブッシュは特攻機に覆われて、見るも無残な状況となっていました。ブッシュは船首を持ち上げて沈没しました。
その後で我々の駆逐艦に特攻機が激突しました。「スーイサイドアタック」と言います。これは自殺攻撃のことです。
時間は1530くらいでした。上空では常に飛行機の爆音が聞こえていましたが、雲の合間から少し大きな戦闘機がほとんど直角に下りてきて艦尾の方から進撃してきました。撃っても撃っても進んできます。白い煙が黒くなり、これに火がついてまるで流星のように炎の尾をひいて突撃してきます。操縦士の顔が見えるくらいに近づいたとき、驚いたのは二人乗っていることでした。船は、特攻機をかわすために大きく右に舵を取りましたが、間に合いませんでした。
船尾から無線指揮所を飛び越えて第二煙突に翼をぶつけて艦橋に体当たりしました。艦橋は火災になり、エンジンは停止しました。船はよろよろと進み、もうだめだと言いながら叫ぶ兵士が船尾のほうに走ってくるのです。
搭乗者はその衝撃で真上に飛び出して第一砲塔の右に落ちてきました。
わたしは偶然、そのパイロットの遺体のそばを通る用事があり、消火作業の合間そのパイロットを見ていました。わたしと同じ20歳くらいの青年です。
遺体は無残な姿をしていましたが、日の丸の鉢巻を締め、家族の写真をネックレスのプレートに入れて身についけていました。わたしはその姿を見たとき、この人は自分の命を捨てて国や家族を守ろうとしたのだ。と思いました。何と崇高な考え方であろうと。
わたしにはできない。アメリカ人にはできないと。
家族の写真は汚れてよくわかりませんでしたが、「百瀬」という字が書かれたネームプレートが操縦服に縫い付けられていました。
わたしはその青年の勇士と強い意志を思い。写真を撮らせてもらいました。そして今でもその写真を大事にしています。
アメリカ人にはこのように自殺してまで国や家族を守るということを考えません。
どんなことがあっても生きて帰るのだということです。
うまく表現できませんが、日本人の一徹さ。潔さ。武士道を考えると、すばらしいことだと言う思いがします。
コルフワンにはこの後3機の特攻機が激突して沈没しました。わたしは沈没する前に僚艦に渡り、生き延びることができましたが、今でも日本機に乗っていた二人の若者のことが頭から離れません。あれ以来、わたしの人生観が大きく変化したと思います。
わたしは、このような日本の文化が好きになり、柔道や剣道を学び、外語学校の教師をしていましたが、定年を迎えました。故郷のテネシーにはもう帰らないと思います。
妻と娘、そして孫たちと日本で余生を過ごしたいと思います。なぜなら、わたしを支えてきた特別な人、「百瀬」さんと妻が日本人だからです。あの戦争で、アメリカ人は日本人のことを一番戦いたくない相手と思ったでしょう。それはアメリカ人にない精神力を日本人が持っているからです。特攻隊のことはその後、わたしなりにいろいろと勉強しました。
そして今思えることは、あの時代のあの青年たちは、世界中で一番輝かしい戦いを行なった人たちなのだと言うことです。人として生まれて、あの戦い方ができたのは、世界中どこを探してもあの青年たちしかいないと言うことです。そして、あれ以上の戦い方は、後世に二度とないということだと思います。
 

弟の手紙

 投稿者:谷口喜和子  投稿日:2005年 6月20日(月)15時41分28秒
   もう秋の気配が色濃くなる季節でございます。この掲示板もこの春からずっと拝見させていただいておりました。
 戦争のこと、日本の未来のこと、平和教育のこと、そして沖縄のこと。
 皆さんがそれなりに真剣に考えていること、拝読するにつれて私の昔のこともご紹介することがよろしかろうと思い、ここに筆を執ることにいたしました。
 皆様方と同じ、昭和十九年の十二月のことでございます。
 海軍兵学校を卒業した弟は、太平洋戦争勃発時に少尉、昭和十九年四月に中尉に進級しました。星が増えて誇らしげに語る弟の笑顔が私の思い出のひとつでございます。
 しかし、ラバウル、トラック、ウルシーをとられて戦線も恐々としてきたころのことでございますから単純におめでとうとお祝いすることもままならぬ状況でございました。
 サイパン、グアムが占領され東條内閣も解散し、小磯内閣も風雪の灯火となった十二月、全軍特攻の体制で戦争に臨むようになっておりました。
 弟はそのころ台湾の高尾におりました。大西瀧次郎中将の下にしばらくはフィリピンにおりましたが台湾の高尾に転戦することとなり、そこからもらった手紙をここで紹介しようと思います。ただし、戦時中につき検閲が厳しくところどころ私が付け足して原文に近いと思われるように書換えております。

「谷口喜和子殿 

 姉上は頗るお元気と思います。私も元気です。母や父はどうですか。
 台湾に転戦し、皇国をとりまく情勢はさらに悪化したように思う。
 ここ第一航空艦隊司令部には、毎日、特攻の辞令と戦果が伝えられるが、華々しいもの何一つなく、しかしながら、憂鬱な気持ちで毎日を送る事はできないのである。特攻隊は毎日のように発進しております。搭乗員の気魄は返って益々向上し、奮励努力の塊となって鬼畜米英の頭上に鉄槌を降しております。ご安心ください。日本は必ず勝ちます。
 先日、宮城近傍が爆撃された由、心配後無用、我々軍人が必ず追い払って見せ候。
                           御身お大切に。」

 弟はその後鹿屋に送られ、昭和二十年四月六日の菊水一号作戦で戦死しました。

「谷口喜和子殿

 姉上、喜んでください。皇国男子として、立派な任務を仰せつかりました。いつかは自分もと思っておりましたが、遂にその時が来たのであります。
 姉上には幼いころからずいぶんとご迷惑をおかけして来ましたが、これが今生の別れであります。姉上、私は文学を専攻しておりましたが、実は、私は帝大を卒業したら必ず医者になり、病で困っている人々を助けてあげることを一生の仕事として生涯を終えたいと考えておりましたが、できないことになりました。
 姉上、私は死ぬのがいやではありません。桜とともに散ることに思い残すことはありませんが、私が死んだらこの戦争が負けたのか勝ったのかを知るすべを持ち合わせません。
 どうか、この一点のみについて姉上が黄泉の国に足を入れるときに必ず私に上聞くださいますように。
 なに、こんな痩せっぽちでも必ず敵艦を屠ってやりますよ。誇りを持って喜び勇んでおります。帝国男子として、皇国の子供として、必ずや天皇陛下の思し召しにお応えできるよう粉骨砕身、この身が粉砕しても一縷敵艦の心臓部に命中し、海底の藻屑に変えてご覧に入れます。
             さようなら姉上。」

 彼は最後の最後まで我が日本の勝利を信じ、戦っておりました。
 日本が負けて、弟の死を目の当たりにしたとき、弟に何度「ありがとう」といったことでしょうか。あなたたちの尊い死があってこそ、数百万人の命が救われたのだということ。これを忘れることは、日本人としての魂を失うことと等しいと私は思います。
 最後に、この掲示板にご登場された皆様方のご健勝をお祈りいたします。
 

弟よ

 投稿者:君島貞子  投稿日:2005年 6月20日(月)15時35分47秒
  私は特攻隊員の姉です。弟は昭和二十年五月に戦死しました。
私の実家は都城ですから薩摩半島は比較的近く、一日あれば何とか辿り着くことができる場所でした。私が弟に会いに行ったのはたったの一度です。もっと逢いたかった。どうして何度も行けたのに行かなかったのか。後悔しました。それは軍隊のことですからおいそれとは会いに行くことはできません。でも、いくらでも逢おうと思えば逢えたに、逢いにいって上げられなかった自分を責めました。今も後悔の念が強く残っています。
最後に逢ったのは昭和二十年三月のことです。ひょっこり実家に帰ってきました。

「ただいま姉ちゃん」という声が私の後ろでするので振向くとそこに洋一が立っていました。
「洋一、久しぶりね。どげしたとこげ昼間に」
「どげしたって、ちょっと皆の顔ば見に帰ってきたとよ」
「洋一、こげん黒なって、見違えたよ。男らしゅうなりよってね。何時までおるん。」
「明日の朝まで」
「なんば言うとこんこは、そげんこつ言うとお父さんもお母さんも驚くよ。悲しんで泣きよらすよ」
「そげん言うたっち軍律は厳しかもん。我儘言うとるんじゃなかぞ姉ちゃん」
このような会話がその時にあったと思います。
父も母もそれは喜んで、洋一の話を聞きました。酒も飲みました。狭い町ですから親戚も集まりました。その夜、洋一と私はこんな話をしました。
「姉ちゃん、この戦争は日本の負けかも知らん」
「あんたそげんこつ言ったら憲兵さんに連れていかれっとよ」
「姉ちゃん、まてって、俺の話も聞いてくれ」
「日本はもう飛行機もないとよ。田岡んちの博史も村岡んちの太市も皆、特攻隊で死んだぞ。沖縄にアメリカ軍が上陸すっかも知れん。そげんこつになったらここは直に蹂躙されっぞ。わかっとるんか姉ちゃん。」
「わかっとらん。あんたまさか特攻隊に志願したっちゅうんやないやろね。人一倍臆病もんの洋一さんは、そぎゃんこつはなかろうもん?」
「姉ちゃん。俺はもう臆病もんじゃなか!」
「洋一、どげしたと? あんたこん姉ちゃんを残して先にしぬん?」
「姉ちゃん、なんば言うとっち、戦争じゃ! 日本が負くるかも知れんとよ! なんば言うとっちこん馬鹿が!」

私は朝まで泣きました。洋一も泣きました。父も母も朝まで泣き明かし、

「姉ちゃん、もうおいのことはええよ。逢いにこんでええよ。空襲も多くなるしな。」

と言われたのを覚えています。
都城駅で洋一の背を押した瞬間に私ははじめてこの戦争がとんでもない方向に向かっているのだという恐怖感を覚えたのです。
五月の初め、私は加世田で弟に逢いました。

「姉ちゃん、ようきんしゃったね。鉄道は繋がっとらんかったやろも」
「ほんと、苦労した。あんたは最後までこん姉ちゃんに苦労ばかけよるね」
「だから、こんでええよ。と言ったやんか」
「こんでええと言われてこん姉ちゃんがどこにおる。こん馬鹿が。そげんとこにつったっとらんと弁当こしらえてきよったで、はよこげえこんか!」

弟と弁当を食べて弟と話をしました。甘ったれで臆病者の弟がやけに逞しく誇らしげなのを不思議に思いながら弟の顔を見ていました。
たぶん、弟はすでに飛ぶ心構えができていたのだと思います。

「姉ちゃんへ
 姉ちゃん、今までありがとう。思えば、迷惑をかけてばかりの弟でありました。しかし、姉ちゃんの意に反し、俺は日本男子として、皇国陸軍航空軍の軍人として責務を果たすことにした。申し訳ない。姉ちゃんは、はよう婿様をもらって幸せになってください。不甲斐なき弟のことはあまり言わんで良いです。
 姉ちゃん、さようなら。先に行く弟の我儘をお許しください。
 さようなら、皆さん、さようなら
                       昭和二十年五月二十一日 君島洋一」
 

大和2

 投稿者:古畑悟  投稿日:2005年 6月20日(月)15時29分6秒
  第二波が早めにくることを知っていた父は、空襲指揮所にこのまま残りましょう。先に戦闘食を配り、次に来る空襲に万全を期す用意で望むこと。と言いながら艦橋周辺の部下を励ましたようです。弁当は麦飯の御握りが二つとたくあん二切れでした。食べ終わるまもなく第二波目の空襲が始まりました。雲高はさらに低く、高射砲は照準を合わせられないまま右往左往と砲身を敵に定められません。雷撃機は十分な距離をとって雷撃し、爆撃機は低い雲から突然現れて投弾しました。それでもこの馬鹿でかい戦艦は右へ左へと鋭い舵さばきですれすれのところをかわして遂に魚雷を一発食ってしまいました。右舷中央橋廊下舷に命中した魚雷は厚いアーマーに当たって水柱を天高く上げました。見上げると父上様も水をかぶりながら依然としてその勇姿を残しておりました。しかし、魚雷が炸裂して二分後に同じ右舷艦橋下の二十ミリ機関砲台に着弾した爆弾の炸裂は、付近の施設のほとんどを吹き飛ばし、その破片は艦橋にめがけて吹き上がり、父上様と共に紅蓮の炎中で焼き尽くされました。その後、第五波か六波か、午前中から始まったこの戦闘も午後二時ごろになると命中爆弾も十発に近くなり、魚雷も十数本命中しました。船速は半分になり、船首喫水は下がり、もうそろそろ私の命も終わりかと思っておりました。
炸裂する着弾音、交差する敵機の爆音、戦友の叫び声、伝令管からの指令、戦友の血しぶき、それはもう地獄です。敵機の射撃でカンカン反射して跳ね返ってくる焼け付いた鉄の破片が足のすね、うで、首筋、おでこに当たり、切れたり火傷したり、いろんなことが同時に発生するために自分の行動が今どうなっているのかさえわかりません。落ちた戦友の腕を拾って、これは貴殿のものか?と聞くと俺のは左だ、左腕を探してくれと。
もう忘れたいが、死ぬまであの光景は忘れられないだろう。私が助かったのは奇跡だと思う。
父上様は、出撃の夜、「沖縄を見殺しにはできん。この作戦は無謀である。成功の見込みはないかもしれない。しかし、我々は皇国軍人としての誇りを持ち、最後の最後まで打ちてしやまむ。一億特攻の魁となって、我は行くのだ。戦わずして負けることを俺は日本人として受け入れることはできん。」とおっしゃいました。
父上様は日本が戦争に勝てるとは思っていないようでした。」
父はそうやって戦争を戦い、死んだんだと納得しました。
私は父を誇りに思っております。最後の最後まで戦い抜こうとしたその姿勢に私は尊敬の意を表します。私はもうそろそろ父のいる世界にいくことになると思いますが、日本一の父親をもった幸せものであったと心から思うのです。「沖縄を見殺しにできん。」と言った父の言葉は、知覧から飛んでいかれた特攻隊の皆様の気持ちと通じるものがあると思い、投稿させていただいたのであります。どうか皆様方、ご自愛くださいまして、これからの余生をご健勝でお過ごしいただけますようお願い申し上げて終わりにさせていただきたいと存じます。
 

大和

 投稿者:古畑悟  投稿日:2005年 6月20日(月)15時27分45秒
  昭和五十六年に私は東シナ海で父の偲ぶ会を行いました。
昭和二十年四月七日に、父は伊藤艦隊の大和に乗り組み、艦と共に徳之島沖に沈みました。
私は当時の科学技術庁の海洋調査船の技師でしたのでその海域がたまたま日本の海洋資源探査の対象となり、私と友人と教官が偲ぶ会を船上で模様していただきました。
父は士官として大和には二年半の乗船経験があり、航海士をその最後の職として乗り込んでおりました。四月六日の見習士官五十名の増員は乗船勤務時間不足のため、伊藤整一中将、有賀艦長の命により退艦させられたそうです。捷一号作戦で日本海軍は致命的な敗北を喫し、武蔵をはじめ、虎の子の日本艦隊の半数を失っています。遂に海上特攻の最終章として大和出撃が命ぜられたのでしょう。
敬老の日が終わり、孫たちが帰った後。私は急に淋しくなりました。孫たちには早く話しておかないとと思い、私の父が戦艦大和に乗って東シナ海で戦死したことを話しました。とはいえ、私も聞いた話ですからどこからどこまでが真実であるかがわかりません。
戦後、大和乗組員の慰霊会や同期生会があり、そこに出席した時に聞いた父に関することを教えてあげる以外には何も知らないのですから。
父は戦艦大和についてこう言っていました。
「大和はひとつの町のようなものだ。とにかくでかい。しかし、あのでかい戦艦も操船ひとつでただの鉄屑になったり世界一の武器になったりもする。要は、人だ。人があの大和を生かすも殺すも左右させるのだ。」
「悟よ、大和は浮沈戦艦と言われているが、武蔵は沈んだ。制空権のない海原でいくら多くの駆逐艦に護衛されていても戦艦は沈められる。制空権を強襲で奪い、艦艇を攻撃する手法は、真珠湾で日本が示した機動部隊による奇襲作戦だ。」
「日本も大変なことを教えてしまったものよ。これが墓穴を自分で掘るということか」と言って笑っていました。
父の務めは航海士としての仕事と、雷跡や爆弾の回避のための操船介助の仕事をしていました。日常的な仕事は航海士で、戦闘中は操船介助というわけです。したがって、当日の空襲中は艦橋の最上部にある主砲射撃方位盤の脇の指揮所にいたそうです。
池田さんと言う同僚の方が生き残り、私どもによく父の話をしていただいていました。
池田さんは右舷高角砲指揮所にいましたので艦首前方上を見れば父のいる指揮所が見えるのです。
「お父上様は第一波目の空襲の時には最後まで指揮所においでになりました。午前中の空襲でしたから小雨がぱらつくいやな天気で、視界一千で雲高五百くらいでした。三時の方向高度五百、敵雷撃機、打ち方はじめ!と叫ぶと、右舷側雷跡発見!距離二千五百、向かってくる!と父上様の声がしました。第一波目では魚雷も爆弾も直撃はありませんでしたが、銃撃で多くの戦友が甲板上を血で染めていました。手足が飛んだものはもう助からないと言って自分の小銃で自殺するものもありました。第一波目が終わり、父上様を見上げると双眼鏡を持った父上様が堂々と任務を遂行しておりました。大和も最大船速で航行し、敵の潜水艦に対応したジグザク運転を始めました。
 

あなた2

 投稿者:美代子  投稿日:2005年 6月20日(月)15時21分33秒
  たぶん場所はルソン島だと思います。町内で同期に出征したものが噂していましたのでそう思っています。
私は、これはあくまでも五郎さんが死んでからと言うことにしました。まだ、生きているうちに解消する必要はないと。ご両親にも了解していただきました。
私は、五郎さんが何時から飛行機に乗っていたのかはわかりません。さぞ大変な訓練であったと存じます。
昭和二十年七月十一日にまた手紙が届きました。
今度は鹿児島のほうであるとわかりました。

「美代子様。またずいぶんとご無沙汰申し上げた。私はそろそろ出撃します。婚約の解消は既に終わっていると思います。私は今、南九州におります。お聞き及びと存じますが、皇国日本は千年ぶりの一大事であります。先日は恐れ多くも宮城が爆撃され、傍若無人な鬼畜米英の勝手をこのまま見過ごす訳には参りません。我ら若者が先陣を切って切り込む所存であります。我が身は百姓なれど掛川の猛者、西川小五郎の子倅なり。身は五尺と小柄なれど、敵の頭上に八幡もののふの鉄槌を降し、我が皇国の魂の強さを思い知らせん。必ず敵艦を藻屑にかえらん。我が身は皇国日本の軍人として畏れ多くも天皇陛下の思し召しにより靖国に鎮座される軍神の仲間入りを許された果報者なり。いざ、粉骨砕身、今決死の苦労を遂げて目的を果たさずば日本男子としての誇り地に落つ。命に替えて郷土の土を守るに思慮の余地はなし。
・・・・・・・・
美代子様。私のような百姓と婚約していただいて、私は果報者と思います。ありがとうございました。これでよかったのかもしれません。おまけに天皇陛下の飛行機にまで乗せてもらって、驚いています。戦友も百姓が多いので皆仲良くしてくれます。
どうか立派な人と一緒になれるように、あの世からお守り申し上げます。
さようなら。 昭和二十年二月四日 西川五郎」
結局、こうなってしまったのでした。
昭和二十年四月六日でした。朝早く神奈川のほうに爆撃機が飛んでいったと言う駐在さんの話を聞いて、畦道を実家のほうに歩いているときでした。
五郎さんが手を振っているんです。「美代子さん。みよこさん。」
黒い顔に白い歯を見せて、いつものように元気よく手を振っているのでした。
私はあれは幻であると同時にこれがどういうことかを察しました。涙が出て歩けなくて、畦に足を取られて座り込んだところに五郎さんのお父さんが来たのです。
「美代子さん。どうしたの。」「今、物干しの横に五郎さんが・・・・」
「五郎さんが帰ってきたような気がして、腰を抜かしてしまいました。」
手紙が来る前に、何かそのようなことに気がついていたような気がしますが。
手紙が届いたときに五郎さんは四月六日に戦死したんだと、確信したのです。
私はその後、結婚しませんでした。一生、西川五郎と言う人を心の隅において生きて行こうと思いました。私も来年の敬老の日で八十歳になります。
こんな人生を送った人は、きっとたくさんいたはずです。なぜなら、そのころの男性ほど魅力的な人はその後、どこにも現れなかったのですから。輝いていましたよ。お百姓さんでも・・・・・・・・。終わり。
 

あなた

 投稿者:美代子  投稿日:2005年 6月20日(月)15時20分25秒
  昭和十八年九月二十八日に私は西川五郎と結納を取りかわしました。西川が急ぎ戦地に赴くこととなり、粗末でしたが慎ましく厳かな式を挙げました。両親と親戚一同が顔を揃えられただけ幸せだと思わなくてはいけないでしょう。式は戦地から帰ってからと言うことになり、私はそれでも西川五郎と言う男性と生涯を共にすることができると言う約束ができたことで安心していました。
昭和十八年十月五日、西川が遂に戦地に赴くときが来ました。掛川の駅に向かって西に進み、消防署の門を左に曲がると掛川の駅が見えてきます。その時、西川は私にこう伝えました。

「美代子さん。我々はまだ結婚していないのだから基本的に、個人の自由は保障されていると思う。だから、私に何かあったら遠慮なく自分お幸せと将来のことを考えて行動してください。宜しく頼みます。それから、父も母も百姓ですが、百姓が嫌なら無理せんでください。百姓はいつまでたっても楽ができないようだから。私は幸せでしたよ、美代子さん。」

私は西川が言ったこと、そのときは別に気にも留めなかったのですが、汽車の汽笛が遠くから聞こえて、ブラスト音が大きくなるにつれて不安になってきたのです。

「五郎さん。さっき言ったことどういうことなの?どういう意味なのですか?教えてください。帰ってくるんですよね。生きて帰ってくるんですよね?」

「美代子さん。戦争に行くのであるから絶対に生きて帰ってくるとは約束できません。しかし、帰ってきます。必ず帰ってきます。帰って来て一緒に百姓やってくれるんなら絶対に死なないから。」

駅前いっぱいの日の丸の旗がたなびき、万歳の声が響く中、汽車は西に向かって走り出しました。五郎さんの顔が見えなくなるまでその不安と戦いました。そして汽車が見えなくなり、煙の影も見えなくなったころ何故か恐怖心が心をもたげてきました。
昭和十九年十月三十日、五郎さんから手紙が届きました。恐れていたことが現実となってやってきたのでした。

「美代子様。大変永らくご無沙汰申し上げました。お元気でいらっしゃいますか。私はいま南方の戦線で戦っております。日本は今、極めて厳しい状況に置かれています。皇国の運命を決める戦いも近づいております。私は、飛行機に乗っております。飛行機と申しますのは爆弾を積んで飛んで行き、敵艦にその爆弾を投下したり、翼についている機関砲で敵を撃ち落すのであります。日本の飛行機は実に性能がよく、敵は恐れをなして逃げるのであります。しかしながら、国力はその技術を越え、物量が物を言う戦いとなりつつあり、今このときに一斉奮励努力することが肝要であります。
美代子様。私は婚約させていただいておりますが、現状では生きて帰る事ができないと判断されるのであり、ここに婚約を解消させていただきたいと考えるに及んだのであります。
どうせ百姓と一緒になっても楽な生活はできません。ちょうどよかったのです。本当にごめんなさい。勝手なこと言ってごめんなさい。ご理解のほど。切にお願い申し上げます。 昭和十九年八月十日 西川五郎」
 

日記

 投稿者:  投稿日:2005年 6月20日(月)15時18分26秒
  ここに兄の日記があります。ご紹介しましょう。

「昭和二十年一月二十六日 晴れ
本日は早朝からたくさんのトラックに大勢の搭乗員が運ばれております。昨日からの兵站作業はこのためだったのでありましょう。年端もいかぬ若年搭乗員が目立つのであります。あの人たちもわたしと同じ特攻隊員なのでありましょう。あどけない顔をしながらも何か心の奥にひめたものを持っているように、真一文字に結んだ唇が印象的なのであります。
私はたぶん三月までには出撃していると存じます。それまでこの国は何とかなるのだろうか。」

「昭和二十年一月三十日 晴れ
麓の店から貰った塩辛で酒を飲みすぎた。頭が痛い。徳一郎が言った事が忘れられない。
敵艦にぶつかったら痛いだろうか。不時着したら溺れるかも知れん。俺は泳げんき。
敵艦にぶつかったらあっという間に木っ端微塵よ。急降下で三百ノットは出る。
二十五番を放つ時定めが肝要。訓練どおりにできるだろうか。
まだ、出撃命令が出ん。」

「昭和二十年二月十五日 曇り
徳一郎が風邪をひいた。熱もある。まるで弟のようなやつ。何でも話すが家族のことは聞きたくないぞ。俺にも家族がある。俺が死んだら泣いてくれるのだろうか。
偵察機が三機飛び、一機しか帰らず。中井少尉戦死。明日は我が身よ。覚悟せい。」

「昭和二十年二月二十八日 雨
朝から雨が降っておる。雨の日は空襲がない。敵さんも雨がお嫌いか。
昨日、宮下の防空壕に着弾。地元の人、数人死す。罪のない人を殺めるとはふとどき千万、俺の目の黒いうちは絶対に許さん。今に見ておれ。」

「昭和二十年三月五日 晴れ
徳一郎の風邪、平癒す。少し痩せたか。空襲警報が止んでから、猪を捕りに山に入る。杉山隊長が追い込んだ猪を捕まえるのに走り回り、沢に転落するも十人でようやく一頭の猪を確保す。猪鍋を皆で囲み、徳一郎満面の笑みを浮かべて喜び候事。実に愉快な一日なり。」

「昭和二十年三月十日 曇り
沖縄に米軍大挙し、上陸の構えあり。軍司令官より通達。いざ身の引き締まる思い。そろそろ遺恨晴らす時機到来なり。憎き鬼畜米英よ、今我らの真剣を頭上に享けてみよ。いざ、いざ沖縄に行かん。我ら振武隊は皇国陸軍の剣の切っ先なり。」

「昭和二十年三月二十一日 曇り
突然父来る。岡山から三日かかるも不休不眠でよくもこらせられた。感謝す。母も兄弟も元気な様子。安心す。この時に及び、父の優しさを感受し、里心、いささか感じざるを得ん。しかし、故郷を鬼畜米英が蹂躙することは我の命に替えて許すべからず。父よ。許せ。父より先に逝く我を許せ。
駅まで送るが、鉄道は不通。相乗りトラックで鹿児島に向かう。父の後姿を最期まで見る。」

「昭和二十年四月六日 曇り
遂に出撃である。我、思い残すこと無し。未練も無し。ただ、粛々として搭乗し、皇国のため、故郷のために無心で突撃するなり。これまでの訓練を支えたまわる整備士の方々や教官に深謝す。必ず必殺必中、敵艦に体当たり、撃沈させることを約束す。
さあ、いざ参る。これまでの遺恨、すべて晴らさずば死しても死ねず。そこで待っておれ。
父よ母よそして兄弟たちよ。さようなら。喜んで参る。」
 

ゲーリー2

 投稿者:林田様  投稿日:2005年 6月20日(月)15時11分8秒
  ゲーリー・マクウェルと申します。
私は1945年の4月16日にラッフェイという駆逐艦に乗艦しておりました。
その日は快晴で、ボローの風が少し吹いていたと思います。ピケットラインNo.3哨所を受け持って哨戒作業をしておりました。
午前10時頃、レーダー管制室から悲鳴のような伝令が伝えられました。
「方位ノースウェスト、距離20浬、戦闘機無数、まっすぐ向かってくる。」
「方位ノース15度ウェスト、戦闘機約50機、距離15浬、まっすぐ向かってくる。」
私は右舷中央部20ミリ機関砲の銃座で給弾作業を受け持っておりました。ラッフェイは船首を東に向けて全速力で進行し、全砲門を北に向けて準備しているところに、水平線から約1000mに黒い無数の点が現れ、飛行機の轟音が徐々に大きくなり、空一面を覆い始めました。
撃ち方はじめ。の号令とともに機関砲、主砲とすべての火器から射撃が始まりました。
上空に3機の特攻隊が現れ、距離を1200mとしていました。友軍機が1機、特攻隊を追い始めたとき、その特攻機は左に捻ったあと急降下でラッフェイに向かってきましたが、友軍機がすぐ後ろにいるために撃てないのです。艦長ベネット中佐は距離をとれと発信しましたが間に合いません。遂に舷側ぎりぎりまで来て主砲弾があたり、舷側20mに墜落、爆発炎上しました。その爆発は至近弾となって舷側の銃座を吹き飛ばし、2名が行方不明となりました。友軍機はコルセアだと思いますが、左翼をレーダー線に引っ掛けて機首から海面に激突しました。この光景を見て唖然としているときに残りの特攻機2機が突撃を開始しました。1機は艦首前方からでもう1機は艦尾からほぼ45度の角度で雷のように襲ってきました。
1機は操縦士に銃弾が当たって斃れたのか、急に不規則な動きになり海面に激突炎上。艦尾からの特攻機は右翼をちぎられて途中から錐もみ状態で墜落炎上しました。
そのときに、艦首と艦尾に気をとられていた乗員が、左舷上空から突撃してくる一式戦を確認しましたが、時既に遅く一式戦は爆弾を投下後、第一煙突の付け根に激突、爆発炎上。爆弾は第三砲塔直下の罐室で爆発しました。
あたり一面火の海となり、エンジン停止、船はよろよろしながら停止し、消火作業を続けていたところに、煙で見えない空から2機の特攻機がほぼ同時に左舷に激突炎上したのです。ラッフェイは、浸水著しく喫水は水面と同じほどとなり、消化作業と排水作業が必死で行なわれているときに、さらに一機突入してきました。
「前部主砲指揮所より3番砲塔へ、十時上空の敵機を打て、3番砲塔聞こえるか、3番砲塔応答しろ」とスピーカーが叫びましたが、3番砲塔は既に焼き払われ、全員死亡でありました。特攻機はその3番砲塔に再び激突し、艦尾を吹き飛ばしました。
ベネット艦長はそれでも退艦せず、慶良間錨地まで船を運ぶことを宣言し、銃が使える以上、船を見捨てないと乗員に伝えていました。
 

ゲーリー1

 投稿者:林田様  投稿日:2005年 6月20日(月)15時09分54秒
  乗員の1/3は死亡か重症となり、内部の作業員はほとんど戦死した模様です。
私は、消火班と交代し、排水を行なうこととなり、ちぎれた艦尾の修理を手分けして始めました。特攻攻撃が始まってまだ30分しか経っていないのに、最新鋭の駆逐艦ラッフェイはこんな無残な姿になったのだと、特攻攻撃の恐ろしさを改めて知らされた思いです。
上空にはまだ特攻機がいます。No.2哨所の駆逐艦からも煙と炎が上がっています。日本軍は今日いったい何機の特攻機を発進させたのか。
排水作業を行なうために、後甲板罐室上部の居住区の嵌め板を修理しようと降りたときでした。底に特攻機のパイロットが座っているのです。まるでさっきまで生きていたかのように座っているのです。私は驚きました。そして「おい、生きてるか」と声をかけたほどです。しかしよく見ると胴から下が千切れているのに気がつき、生きていないことを確認したのです。その搭乗員はたぶん十代の若者だと思います。胸のところに縫い付けられた白い布には「林田」と言う文字が確認できました。
日本の国旗を胴に巻きつけ、頭にも国旗を付けていました。
私は胸に十字を切り、「神よ、どうかこの若者を天国まで送り届けてください。そしてすべてが終わったことを気がつくように、教えてください。」と祈りました。
ラッフェイは、この搭乗員を乗せたまま、駆逐艦クリフォードに曳航されて慶良間に戻り、この青年を浜辺に埋葬したのです。
戦後、この搭乗員は神風特攻第三神剣隊「飛曹長 林田貞一郎」鹿屋発進と言うことが判明し、ご遺族にこのことをお伝えしたのであります。
私は一度、アメリカに戻りましたが朝鮮戦争で後方支援部隊として日本に残り、そのまま日本の女性と結婚し、今は那須塩原で農家をしています。
ここからの景色はすばらしい。林田さんはこれを守りたかったのでしょう。日本人は不思議です。そして日本の文化も不思議です。
私は日本の文化が好きです。いえ、ボブ・G・コナーもそう言っていますが、輝いていたあの時代の戦士たちに私は人生のすべてを教えられた気がするのです。
命に替えて守ることができる大切なものがあるのだと言うことを。私は、野菜を作りながら今、ゆっくりとそれを考えているのです。「林田さん。ありがとう。戦争がなければ私はあなたと友達になれたと思います。親友として話したかったことがあります。国境がなければ私は貴方のすばらしい人生の片隅に置いてもらえたのに、残念です。」
 

 投稿者:三河の輔  投稿日:2005年 6月20日(月)15時08分18秒
  私は桜の花が散る頃、いつも空を見上げて黙って耳を澄まして静かにしています。
遠くのほうから飛行機の爆音が聞こえてくるような気がして、毎年荒川の土手を訪れて草むらに腰を下ろします。
私は神風特別攻撃隊 第六昭和隊 少尉 根本宏の妹の清子と申します。
兄は昭和二十年五月十一日、鹿屋から出撃しました。
ここに当時の兄からの手紙を紹介します。

「昭和二十年三月一日
 皆様、お元気でしょうか。私も元気でがんばっております。先月骨折した左腕はようやくギブスもとれ、いよいよ突撃の命令を待つばかりとなり、日夜、右腕を訓練しているところであります。思えば不覚にもトラックから転落し、あれがなければ今頃は戦友とともに敵艦の命中し、二階級特進の名誉を頂戴するはずでした。残念無念なり。
我が愛機は頗る調子もよく、風雨に耐えて出撃を待っております。どうかご安心ください。
清子はどうですか。風邪をひいて熱など出しておりませんか。遠い土地からは心配することのみでお役に立てなくて申し訳なく思っております。どうぞ、皆様方にはご健勝にて過ごされますように、南九州の空を見ながら念じております。 宏」

「昭和二十年五月十日
 お父様、お母様、清子様 
 お喜び下さい。遂に出撃の時が着ました。明朝○五○○時、愛機を駆って突撃します。
お父様、お母様には何一つ親孝行できずに本日まで育て上げていただき、感謝の気持ちであります。清子にも兄らしく傍にいてあげられなく、不自由な思いをさせて申し訳なく思っております。
 必ず。必ず敵艦に命中し、轟沈させることを期しております。男子の本懐、これに勝るものがまたとありましょうか。皇国の運命はこの一戦にかかっております。司令長官殿より、全軍突撃せよのご命令により、鬼畜米英の艦艇を一挙に殲滅するはこれ大和武士の信念なり。人間、一度生を得て滅せぬもののあるべきか。萬のわが武士の餌食とせん。
これでお別れでございます。 ありがとうございました。さようなら  宏」

この手紙が私どもの手に渡ったのは終戦間近い八月の初め頃でございました。
五月十一日の早朝、私は戸田橋の自宅から歩いて荒川の土手に差し掛かった時に、確かに飛行機の爆音を耳にしました。晴れ渡った青い空のどこからか響いてくる飛行機の音。
機影はどこを見ても見当たりません。でも耳に残る飛行機の音でした。
この手紙を受け取った後、五月十一日に出撃したことを知り、あの荒川の土手で聞いた飛行機の爆音は兄のものだと思っております。
こうして、桜が散り、葉桜になる頃。私はいつも荒川の土手に座り、兄が飛んでくるのを待つようになりました。
 

あんちゃん3

 投稿者:遺族  投稿日:2004年10月 6日(水)12時22分4秒
  「お父様、お母様
 永い間お世話になりました。黄泉のくにへ旅立つ時が参りました。思えばこの二十四年、お父様、お母様には何一つ孝行できず、不甲斐ない息子であったこと深くお詫び申し上げます。何不自由なく三河に育ち、立派に育てて頂いたこの体躯をもって、皇国陸軍の軍人として立派にその最期を遂げる所存なり。どうかお喜びください。さようなら
昭和二十年四月十六日」
「史子様、敏子様、美弥子様
 あんちゃんは兄として何もしてあげられなかったが、おまえたちは立派な女性となって日本のお役に立てるようにがんばりなさい。そして、男子をたくさん産んで父と母を助けてあげるように。あんちゃんの最後のお願いです。御身お大切に。さようなら
昭和二十年四月十六日 兄より」
 

あんちゃん2

 投稿者:遺族  投稿日:2004年10月 6日(水)12時21分5秒
  「汽車とトラックを乗り継いでやっとここまで帰ってきた。皆大丈夫なので安心したぞ。」

と言いながら笑顔で迎えてくれました。

私は、神風特攻隊が飛行機に爆弾を抱いてそのまま敵艦に体当たりする攻撃を陸軍も始めたのを知っていました。まさか兄はそのようなことがないと思い、恐る恐る尋ねてみたのです。

「あんちゃんは太刀洗で飛行気乗りを育てているんだから、特攻隊には入らないんでしょ?」

兄は返事に困ったようでした。それが私には恐怖心となって襲ってきました。

「あんちゃん、あんちゃんは特攻隊にならないんでしょ?返事してよ!」

すると兄は思い直したような顔付で、座りなおしたのです。私はそれを見て遂に来るときがきた。思いました。

「史子よ。敏子、美弥子よ。あんちゃんは3月になったら知覧という飛行場に特攻隊として行く。知覧は今、飛行場を整備中だから今は太刀洗におる。

「知覧なんかどこだか知らない。あんちゃんは教官でしょ。教官がなぜ自分から特攻隊に志願するの?お父さん、お母さん、お願いだからあんちゃんをとめてよ。」

「皆よく聞け。あんちゃんは軍人だ。この皇国日本の軍人だ。特攻隊は死にに行くのではない。戦いに行くのだ。軍人だから戦うのだ。この国を守り、おまえたちの行く末を按じ、あんちゃんは究極の戦いを行なって皆を守るのだ。このままだと日本は本当に大変なことになるんだぞ。誰かが行かなければならんのだ。あんちゃんはその魁となって行くのだ。」

父と母は、想像していたことが現実となったことで仕方がないという諦めの様子でした。

「あんちゃんは特攻隊で死ぬが、おまえたちはあんちゃんよりも絶対に先に死ぬようなことがないようにしろ。おまえたちには何もしてあげられなかったが、これがあんちゃんが最後にしてあげられることだ。」と

その夜、地震が来た事、同級生が亡くなったこと、兄の同級生が床屋の娘と結婚したこと、そして兄の昔話をしながら、敏子も美弥子も泣きながら兄に寄り添って眠りました。
次の日、兄は太刀洗に向けて出発しました。鉄道は不通でしたからトラックで名古屋まで出て、そこから豊橋まで行って飛行機で大刀洗に行くといっていました。
 

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